diary

December 25

昨日ぐらいから、一般書店で売っています。えらく遅れたなー。クリスマスだから、ま、いいか。ちなみに、白い本は、「バガヴァット・ギーター」のことです。そして、12月2日は、「ギーター・ジャヤンティー」で、この日にクリシュナがアルジュナにギーターを説いたとされ、ヒンドゥー教関係の国ではお祝いがされます。

December 11

本日からアマゾンで買えます。数日以内に紀伊国屋などでも買えるでしょう。→GO!

November 29

昨日、完成本が届きました。なかなか綺麗に仕上がっている。昨日出来たんだから、市場に回るのは、12月中旬かなー。

November 17

本のチラシが出来ました。
案内チラシ(表)→
案内チラシ(裏)→

November 13

バーガヴァタ・プラーナの中巻がアマゾンで再び買えるようになりました。欲しい人は早く買いましょう。「識別の宝玉」は、しばらくすれば買えるので、こちらも早く買いましょう。

November 8

私がシャンカラについて勉強した結果、最も驚いたのは、世間(日本での話)でいわれている?ような思想とは、(少なくとも私が抱いていたイメージとは)かなりかけ離れたその世界観でした。私が思っていたのは、厭世的、現実否定的な、世界はすべて幻だ、というような見方でしたが、本当は全然違っていたのでした。その時、心に浮かんだのは、一つの言葉。自分でも気に入って、本の一番初めに載せようかと思いましたが、あまりにも、あれなので、カバーの見開きに載せました。一番初めの一行がそれです。何だかジブリみたいだなー。宮崎駿が読むと喜びそうだな。人生は肯定すべきものなのです。

November 6

詩句の改訂版(最終稿)をアップしました。さらに、前書と、サンプルページを載せておきますので、見て、興味あるようでしたら買ってください。なお、本のタイトルは「識別の宝玉」で、サブタイトルが「完訳 ヴィヴェーカ・チューダーマニ」になります。
まえがき→
サンプルページ@→
サンプルページA→

November 5

入稿すべて終わりました。あとは印刷待ちです。カバーの写真アップしときます。少し遅れているので、本屋に並ぶのは12月中旬になるかもしれない。本の値段は、3200円にしないと元が取れません。ですから、1000円は、私のおごりと思ってください。

October 25

校正はすべて終わったので、そのうちすべてアップロードします。本の発売は12月2日です。値段は、¥2,200+税金です。12月2日に発売する理由は、つまり、白い本です。わかるかなーー。わからない人は、インドの祝祭日カレンダーを調べてね。もうすこしすればカバー表紙を載せます。

September 27

詩句550、詩句563の校正版をアップロード。発行までまだ時間があるので、記事とか、詩句を選んで載せていきます。

September 25

詩句364〜詩句532まで校正版をアップロード。気が向いたら、おまけの掲載をします。

September 24

詩句212〜342の校正版をアップロード。詩句313は新規掲載です。本のページ数は544ページになります。サイズはA5サイズに変えました。

September 22

先日、日本を訪れたインドのモディ首相は、天皇陛下に謁見した時、バガヴァット・ギーターを手渡して、「これを読んでください。インドの宝です。」と語ったそうだ。はたして天皇陛下は読まれたのだろうか? 詩句192まで、改正版を掲載。今回のアップロードが、たぶん最終校正版です。詩句74と詩句145を追加。詩句74にはパンチーカラナについて書いています。パンチーカラナとは、粗大な要素が、いかにして微細な要素に変換されるかという説明です。詩句145では、サンサーラが如何にして発生するかが、喩えによって語られています。

September 16

気が付くと9月になっていた。昨日、すべての校正が終了した。ファイルデータを見ると、ちょうど一年かかってしまった。文章は10%減らせた。当初の計画では翻訳だけだったのに、終着点はかなり異なったものになった。うん、でも、シャンカノの本を読んで理解不能の人でも、理解していただけると思います。ただし、少しばかり許容してもらわないとダメなところ、というか、それがわたしの本心なのですが、それがありますので、買う時はそこの点を考慮してください。その代わり値段は安くしますので。

August 19

「観る者(ドリク)」と「観られる対象(ドリシャ)」の関係は、アートマンが如何なるものかを識別するのに語られる用語です。順番に考えると面白いよ。あるものを見る場合、そのあるものが観られる対象で、観る者は眼です。そしてその眼で見たものは心によって認識されます。つまり眼が観られる対象で、観る者は心になります。そして心の活動は、アートマンが観ており、それゆえ心が観られる対象で、アートマンが観る者になります。それではアートマンを観る者はだれか? アートマンは誰によっても観られないのです。つまりアートマンは唯一の観る主体者なのです。それゆえアートマンに至った者は「唯一なるもの(ケーヴァラ)」と呼ばれるのです。アートマンを悟ると、存在するものはアートマンでしかなくなるのです。そこに至ると、もはや見る者、見られる対象の区別はなくなってしまうのです。

August 16

映画でも小説でも、失敗作になるのは、編集がだめだからだ。作者にとっては自分の作ったものを捨て難いので、それが冗長になる。何事も短い方がよい。短い極限が詩であり、格言になる。つまり、文章削っているだけです。ああ、疲れた。かなり減らした。ビシバシ削るだけ。今度改定する時は、おそらく最終版です。

August 5

知らないうちに八月になっていた。原稿用紙1400枚もあるので、文字を削減中。あまり長いと、同じようなこと書いてて気づかんから、見直し中。ウザイ文章もビシバシ削る。自分で読んでウザイ文章は、他人が読むと数倍ウザくなる。どうでもいいけど、「ウザイ」って、日本語辞書には載ってないんだね。

July 19

知らないうちに七月になっていた。校正は終わらない。わたしの夏は始まらない。あああ。同時にカバーも作成中。これだと8月の発行は絶対無理だな。話は変わるけど、インドの聖者、ラマナ・マハルシ(1879〜1950)も、ヴィヴェーカ・チューダーマニを大いに参考にされたらしい。自分でサンスクリット語から翻訳して、それに序言を書かれた。「ラマナ・マハルシとの対話・第2巻」103ページに載ってます。この方はジュニヤーナ・ヨーガの唱道者で、それゆえシャンカラの教えとちょうど波長が合うのでしょう。インドにはいろんな聖者がたくさん出てきますね。それぞれ役割があるのでしょうね。至上主の姿も無数にあるので、その顕現も無数におられるのだろうな。日本にもいるんだけどね、というか、いたんだけどね。その内に世界中で名前が知られるよ、絶対。
話は変わるけど、「ミラバイ訳詩集」も、「バーガヴァタ・プラーナ中巻」も、在庫はたくさんあるので、アマゾンで悪質中古業者から何万も出して買うのはやめましょう。しばらくすれば出てきますから。

June 30

詩句522から詩句574を修正。微調整。毎回新しいことに気付くので、校正は結構楽しい。全体像がわかるし。最初は何書いたらよいか途方に暮れたが、書いているうちに、書くことが浮かんできて、問題点が現れてくるので、それなりに文章もまとまってくる。これって専門用語で「ヴィチャーラ」のことなんだろうな。ヴィヴェーカ・チューダーマニは、シャンカラが自分の思想を初心者向けにまとめた、集大成とでもいうべきものです。難しい用語も用いずに、わかりやすい言葉でまとめられており、インドでは全言語に翻訳されて、ヒンドゥー教徒の学びの書となっています。これを読むだけで、ウパニシャッドの思想がすべて把握できるでしょう。

June 26

詩句474から詩句504を修正。文章を減らそうと思うんだが、だんだんと増えてくる。あと少なくとも一回は一巡するのでよろしく。

June 21

詩句417から詩句451を修正。
シャンカラの説いた教えに「仮現説」というものがあり、つまり、「現れて見える世界は仮現である」というもので、今日の解釈では、ブラフマンの上に現れて見える仮の姿というようなものらしい。仮現のサンスクリット語は「ヴィヴァルタ」だが、ヴィヴェーカ・チューダーマニと、ウパデーシャ・サハースリの両者において、この言葉は出てこない。おそらくここに出てこなければ、他の書物にも出てこないだろうと思う。仮現というのは、後の人々が命名したもののようで、シャンカラが用いた言葉ではなさそうだ。今日ではそれは「幻」、「マーヤー」というように受け取られており、それがシャンカラの意図したことだったかは疑問である。シャンカラが用いたのは、「ミティヤー」という言葉で、その意味は「虚しい、偽りの、間違った、不正確な」となり、これも解釈に注意が必要である。「ブラフマ、サティヤン、ジャガン、ミティヤー」とは、シャンカラの語った有名な言葉で、意味は「ブラフマンは真実であり、世界はミティヤーである」というものである。このミティヤーは何を意味するか? 本を買って読みましょう。

June 16

詩句272から詩句401を修正。
訳していると、「私は行為者でもなく、享受者でもない」なんて出てくる。ふむふむ、では誰が行為者なのかな? この場合の私って、誰のことなのかな、アートマンだろうか、それとも、ジーヴァとしての自分だろうか、と混乱してくる。さらに、「ブラフマンと一つになる」と、自分は無くなってしまうのだろうか、塩人形が、海の中に入ると溶けてしまうとかいう話があるが、はて、どうなのだろう? と、疑問が湧いてくる。あちこち調べて勉強すれば、これらのことは分かったんだけどね。巷のシャンカラ関係の本を読んでも、意味不明になるところがしばしばあるが、問題点は、というか、シャンカラとしては、ウパニシャッドとかギーターとか、その他諸々の、サナータナ・ダルマに関する素養を、弟子が持っていることを前提として書いておられるのです。であるので、それらを勉強して理解していなければ、シャンカラの書いたものだけ読んでも、理解できないのです。おまけに、ウパニシャッドの訳本も間違いあるし、読んでも意味わからんところたくさんあるし、ギーターだって、意味を教えてもらわなければ、我流で読んでも、本当のことが理解できないし、言葉って難しいよね。如何様にでも解釈できるし、重要点はどこにあり、どれがどうでも良いようなことなのか、人に教えてもらうこと、疑問に答えてもらうこと、それが一番大事なのです。であるので、ウパニシャッドの教授は、導師と弟子との間で、その傍に坐して話を聞くことでなされたのです。書物になった現代においても、基本は同じでしょう。

June 14

詩句15から詩句251を修正。本になるのは、8月かな。

June 4

詩句563と574を修正。読んでいくと、シャンカラは「仮面の仏教徒」と言われた理由がよくわかる。具体的に言うと、@行為よりも熟慮(ヴィチャーラ)、つまりブッディの陶冶、アートマンの悟りを重要視する。A主という概念が必ずしも明確に表されていない。Bこの物質世界は幻のようなもの、つまりアサットである。C梵我一如の境地に至ること、つまり悟りを最終目標にしている。D自力的要素が強い。などなど。けれども、このどれも表面的にしか読んでいないことによるのです。よく読めば、これらすべてに対して、シャンカラはそのようなことを言っていないと理解されるのです。あの世にいるシャンカラ大師も、きっとこの意見に賛同されていることでしょう。詳しくは、本を読みましょう。

June 2

詩句417から550の改正版をアップしました。および詩句189を一部修正。本になるまで修正だらけ。読んでるとおかしなこと書いてるので、あちこち修正するから、また訪問よろしく。あと二回ぐらい校正するかな。巷に出回っている他のシャンカラの本より詳しいと思うよ。

May 26

詩句212から詩句401まで更新。調子に乗って書いてると、後で読んでみたら、どうかなと思ってしまいます。変わったことを書こうとすると、やっぱり気負うのか、読み返すと、くどいなーと思います。ビシバシ削除して、素直に思うままに書くようにすると、それでも色々と書けます。それでもわからんところは結構ありますが、ブラフマンを悟ったわけではないので、わからなくて当たり前でしょう。わからんところは、このように聞いた、このように書いてあった、というだけにとどめるのが無難です。

May 13

詩句15から詩句193まで更新。詩句本文はこれで最終稿になりますが、「覚書」の部分は少し変わると思います。

April 19

「祈りの言葉」って、別に「天にまします我らが神よ」でもありませんし、タイトルは「金剛仏宝頌」ってのになります。変わったタイトルですが、理由は、内緒です。わかる人にわかればいいのです。

April 14

本の構成はこんな感じになります。シャンカラの詩句そのものは1から580まで通し番号で、章毎のタイトルなどはありませんが、便宜的につけてみました。これで大体の話の流れがわかるかと思います。
もう少し細かく分かれるかもしれません。

ヴィヴェーカ・チューダーマニ
目次
祈りの言葉
まえがき
導師への賛辞 詩句一
人間の素晴らしさ 詩句二〜五
アートマンを悟る重要性 詩句六〜十四
ブラフマンを知る資格とは 詩句十五〜十九
四つの前提条件 詩句二十〜三十
バクティが最高の手段である 詩句三十一〜三十二
導師への帰依 詩句三十三〜四十二
導師は語り始める 詩句四十三〜四十七
弟子の疑問 詩句四十八〜四十九
自助努力の必要性 詩句五十〜六十七
解脱への道標 詩句六十八〜七十
人間を構成するもの 詩句七十一〜七十四
感官の対象の恐ろしさ 詩句七十五〜八十四
大いなる死 詩句八十五〜八十六
粗大な身体 詩句八十七〜九十一
微細な身体 詩句九十二〜一〇七
マーヤーは主の力である 詩句一〇八〜一一〇
ラジャスは人を混乱させる 詩句一一一〜一一二
タマスは人を無知に落とす 詩句一一三〜一一六
サットヴァこそが解脱につながる 詩句一一七〜一一九
原因の身体 詩句一二〇〜一二一
非アートマンとは 詩句一二二〜一二三
最高のアートマンとは 詩句一二四〜一三六
人はなぜ束縛されるか? 詩句一三七〜一四八
五つのコーシャ 詩句一四九〜一五三
アンナマヤ・コーシャ 詩句一五四〜一六四
プラーナマヤ・コーシャ 詩句一六五〜一六六
マノーマヤ・コーシャ 詩句一六七〜一六八
心の重要性 詩句一六九〜一八三
ヴィジュニヤーナマヤ・コーシャ 詩句一八四〜一九一
ジーヴァの状態は終わるのか? 詩句一九二〜一九三
仮相 詩句一九四〜二〇六
アーナンダマヤ・コーシャ 詩句二〇七〜二〇九
五つのコーシャの否定 詩句二一〇〜二一二
アートマンの発見 詩句二一三〜二二二
ブラフマンだけが真実である 詩句二二三〜二四〇
不二一元 詩句二四一〜二五〇
あなたはそれである 詩句二五一〜二六六
ヴァーサナーとは 詩句二六七〜二七六
アディヤーサを取り除く 詩句二七七〜二八五
あなたの本質はアートマンである 詩句二八六〜二九七
アハンカーラを滅する 詩句二九八〜三一〇
原因と結果 詩句三一一〜三二〇
不注意は死そのものである 詩句三二一〜三二八
恐怖の原因 詩句三二九〜三三三
外的なもの 詩句三三四〜三三五
全なるアートマン 詩句三三六〜三四〇
識別の炎は仮相を消し去る 詩句三四一〜三五二
ニルヴィカルパ・サマーディ 詩句三五三〜三六六
ヨーガ 詩句三六七〜三七一
ヴァイラーギャ 詩句三七二〜三七八
瞑想の対象 詩句三七九〜三八四
唯一なるもの 詩句三八五〜三九一
ブラフマンとして生きる 詩句三九二〜三九八
唯一の「現実」 詩句三九九〜四〇七
これがブラフマンである 詩句四〇八〜四一二
肉体への愛着を捨てる 詩句四一三〜四一七
最高の成就 詩句四一八〜四二五
最高智とは 詩句四二六〜四二七
ジーヴァン・ムクタ 詩句四二八〜四四〇
解放された者 詩句四四一〜四四四
カルマの消滅 詩句四四五〜四五〇
放たれた矢 詩句四五一〜四六三
多様性の否定 詩句四六四〜四七〇
導師と弟子 詩句四七一〜四七八
弟子は解脱を遂げる 詩句四七九〜五一九
識別の宝玉 詩句五二〇〜五七七
シャンカラの祝福 詩句五七八〜五八〇
索引
参考文献

April 3

少し読みにくいですが、可及的に原文通りに訳して、意訳はないようにしています。その後は、読む人それぞれの解釈でしょう。話は変わりますが、先日、昼休みにうつらうつらしていると、若いお坊さんのような人が出てきて、真っ白な表紙をした、少し大きな本の上に、それよりも小さくて、カラフルな表紙の本を置き、それを、両手で私の方に向けて押すようにして、渡そうとされ、その同じ動作を二回されるのでした。変わった夢を見たなと思ったのですが、どうもその光景が心から消えず、その後、ある本を読んでいると、ああ、そういうことかと合点したのでした。分かるかなー? また、覚書の部分でしばしば聖書からの引用をしていますが、ある夜、あちこちと聖書の中で文章を探していると、左の後方でモヤモヤーとした感じになって、その中で人の顔が浮かび上がり、しばらくこちらをじっと見た後で、消えていったのでした。あれって、誰なのだろうか?

March 17

詩句417から詩句574まで、改正版を載せました。文章が一部うざいですが、不快感を感じないように校正し、内容を追加していきますので、しばしば訪問よろしく。

睡眠の考察:夢を見ない深い眠り、つまり熟睡時には、人間の魂はブラフマンの世界に行き、そこでブラフマンと一つになっている、と、日本の書物には書いてありますが、あれは間違っているのです。熟睡時には、たしかに、人の意識はブラフマンのそばにいるのですが、ブラフマンの世界にはいないのです。具体的には、意識は、その時、アーナンダマヤ・コーシャというところにいるのです。名前の通り、これは至福に満たされた場所で、たしかに、内なるアートマンに最も近い場所にあるので、その光を受けて、人の意識は安らぎを感じているのです。でも、これは、全くの無知に支配された世界なのです。どうしてアートマンのそばなのに、無知に支配された世界か、そしてどうして人の意識はその時、安らぎを感じているのか、それはこのアーナンダマヤ・コーシャが如何にして形成されて、何によって構成されているかを知らなくてはわからないのです。でないと、インド哲学者たちが言っている、「熟睡時は人の魂はアートマンと合一している」、なんてことがあるなら、精神的修行なんていらないし、それこそ、熟睡の、さらにその奥に向かうのだ!なんて、薬とか使って恍惚状態になるなら、それがニルヴァーナだなんて、馬鹿なことを言う人が出てくるではありませんか。そしてここには、人間の魂はどうしてブラフマンから分かれるようになったか、そしてどうして人は喜びを感じるのか、どうして苦しみを感じるのか、その秘密が隠されているのです。またそれは、このアーナンダマヤ・コーシャのもう一つの呼び名によっても示唆されているのです。知りたい人は、本を買いましょう。

March 12

一番美しいと思える表現。「私の心は、まるで雹のように、その海の中へ落ちていき」なんて、非常に詩的ではありませんか。
「不安も、恥ずかしさもなく、食べ物を受け取って
清らかな川から水を飲む
何にも制限されずに、自由に生きて
恐れることなく、火葬場や森にて眠る
洗うことも乾かすことも必要のない、空気という衣を身にまとって
大地を自分の住まいとする
そうしてヴェーダーンタの大道を歩み
至高のブラフマンが、その覚知を得た者の遊技場となるであろう」
ここの部分も好きだなあ、でも、これ校正前なので、変わると思います。
出版は3月15日と書きましたが、その日に、詩句の校正が終る感じです。その後、覚書の部分を書き加えていきます。

March 8

シャンカラの真作云々ということに関して、ウパニシャッドなどの注釈書(バーシャ)、それとウパーデーシャ・サハースリだけが、シャンカラが書いたもので、それ以外のものはそうではないとされており、もちろん、ヴィヴェーカ・チューダーマニも実際にはシャンカラが書いていないとされている。が、そのように言っているのは、西洋の学者達だけであり、インドの人はそんなことは言っていない。というか、今までに多くの聖者が、この書物に重きを置いて、そこから教えを受け取っている。では、近代西洋の学者が、どうしてそのように見なすかというと、これもつまりは、文字だけの分析、推測から導き出した結論にすぎないのだ。それを真に受けて、日本の学者たちも、これらはシャンカラの真作ではないと語っているだけなのだ。彼らの論点は二つである。ひとつは、書かれている内容が、ウパニシャッドの注釈書などに書かれているものと異なるということで、もう一つは、言葉遣いが、シャンカラの他の著作とは異なるということである。この点については正しいが、問題はここから導き出した推論にある。重要なことは、そもそも、ヴィヴェーカ・チューダーマニは、ウパニシャッドに関して素人である、初心者に向けて書かれたものだということである。つまり、ギーターなどの注釈書は、それを専門にしている方々を対象としたものなので、当然のごとく、書いている内容は異なってくるわけである。次に、シャンカラは散文も書かれたが、多くの韻文も書かれており、それらにおいては詩的表現が駆使されているということだ。詩的表現には、詩的誇張があり、韻律を合わせるために、言葉を選んでいく作業は必要となるだろう。
ヴィヴェーカ・チューダーマニには、ビックリするような表現もあって、学問書と思っている人にとっては、足元をすくわれるような経験をするだろう。だが、内容は、全ウパニシャッドを、アートマンの悟りという、その一点に絞って、再構築したものとなっているので、我々には非常に意義あるものなのである。「優しく口づけして」、「永遠の若さを持つ乙女の如き」、「死体を放り投げるように」、などなど。

March 4

梵我一如の思想はウパニシャッドの精髄とされており、一般には、ブラフマンとアートマンは同一である、と思われる人もいるようだが、サンスクリットの原典を調べると、どこにも等しいとは書いていない。等しいとすると、人間は悟ると神になる、神と人間は等しい、という理屈になるが、そんなことはあり得ない。原典では、「ブラフマンとアートマンは一つである」、ないしは、「ブラフマンとアートマンは区分できない、連続している」、という表現になっている。つまり、人間は好きな人がいると、その人と一つになりたい、常に一緒にいたいと思うだろう。また、相手を思うことが強くなるなら、それと自分は別々のものではいたくないと思うだろう。つまり、梵我一如とは、神と自分が結ばれて、常に一緒にいる境地のことで、決して等しいという意味ではないのです。翻訳の間違いでしょう。それ以外に、こだわるなら、「知る」だけでも、認識する。識る、覚る、習知する、知る、覚知する、判知する、経験する、などが使い分けられ、「見る」でも、眺める、目撃する、静観する、観る、観察する、などが使い分けられる。ただ、「知る」、「見る」だけだと、微妙な意味の違いが不明になるでしょう。また「行為」と「行動」は別であり、差異と区別、多様性、不統一、二元性、なども別の概念で、チットとボーダも意味が異なるし、アートマンとスヴァム、アハムも、少しずつ意味が異なるでしょう。言葉にこだわると、色々なことが見えてきます。

February 20

校正が遅れています。後から次々と資料が出てくるので、訂正などで時間がかかっています。中途半端なものは出したくなく、納得のいくものとして出版したいので、もう少し時間がかかると思います。シャンカラの伝記などは、皆さんが知っておられるので、不要かと思います。伝記といっても、資料として残っているのは、神話のようなものなので、正確な年代も不明です。それを除いても500ページを超えてしまいます。ヴィヴェーカ・チューダーマニの、西欧での翻訳は、まさしく、翻訳だけで、何の解説もありません。それでも書評で「素晴らしい!よくわかる」などと書いてあります。たしかに、特に気にせずに読めば、すらすらと読んでしまいますが、意味をよく考えると深いものがあり、おいおい、ちょっと待ってくれよ、となります。文字の後ろに叡智が隠れているとは、まさしく至言です。思うに、これって、ジュニヤーナ・ヨーガそのものではないかと、このように思索するために、シャンカラ大師もこの書を書かれたのではないかと思わされます。ちなみに、インドでの翻訳、解説本は、さすがに詳しいですが、内容はそれほどでもありません。それに、どうも、インドの人は西欧文化にコンプレックスがあるのか、西洋哲学、物理学を引き合いに出して解説しているものが多く、ヴェーダ文明に敬意を払っている人間からすると、違和感を感じてしまいます。日本でのシャンカラの解説書も、哲学的に、ややこしく考えているので、読んでも理解が難しく、頭が混乱してきます。自分でわからないことを書くと、読んだ人は余計にわからないでしょう。結局は自分で納得して、思うままに書くしかありません。

February 3

詩句321から401まで校正版を載せました。

January 25

詩句272から305まで改正版を載せました。

January 19
詩句212から詩句251まで改正版を載せました。

January 6
詩句15から詩句192まで改正したのを載せました。けれどもまだ最終校正前なので、少し変わると思います。後は順次、改正版を載せていきます。

December 24
 ファイルが大きいので、三つに分けて編集していますが、おもしろいことに、内容も三つに分かれていました。最初の部分は、アートマンと非アートマンの違いなど、様々な説明部分で、二番目は、いかにすれば解脱に向かうことができるかという方法論、そして最後は、解脱すればどのような境地になるかの結論が語られます。けれども、導師(グル)というのは大変な方であると、いまさらながら実感したのでした。……少し遅いですが。 ページ数はすでに500ページを超えました。シャンカラの生涯などを加えるとさらに増えてしまうので、何とかしなければいけません。覚書の部分は、最初はウパニシャッドやギーターの相当する部分を書いて適当に済まそうかと思っていたのですが、書いているうちに何だかいろいろと心の中に湧いてくるので、自分でも楽しいので、それを書いています。読む人は、うざいと思うだろうかなあ。

December 13
 マーヤーについて、この現象世界はマーヤーであり、それゆえ、世界はすべて幻だ、偽りだ、真実は自分の中にしかないのだ。などと思っていましたが、そうではなくて、この現象世界を、このように見せているのがマーヤーだとのことです。この世界もまたブラフマンそのものなのです。この世界がマーヤーなら、人生には生きる意味などなく、人間はみんな山にこもって瞑想していればいいのです。ならば人間の存在意味はなくなってしまうではありませんか。そうではなくて、世界が汚れたものだと思っている、その自分自身が、マーヤーに惑わされているのです。ヴェーダはそれゆえ、現実肯定そのものであり、すばらしき人間賛歌なのです。

December 6
 
シャンカラというと、哲学者と思われているむきがありますが、インドでは「詩人の中の詩人」と呼ばれて、そのサンスクリットの韻文は非常に美しいものです。
詩は、その意味と韻律が融合するなら、最高に素晴らしいものとなりますが、シャンカラの詩はまさしくそのようなものです。日本に出回っている邦訳では、それら美しさは理解できず、無味乾燥なものになっていますが。
原文では2行詩、ないしは3行詩になっていますが、翻訳の都合上、4行詩、もしくは6行詩の形態にしています。ところどころ8行詩になりますが。なるべく原文の雰囲気を保てたらいいなと思います。・

December 1
 
本の出版は少しずれるかもしれません。 ページ数は400を超えそうです。(もう超えてます) 詩句だけ訳してもつまらないので、注釈を書いています。
ただ、自分が注釈を書くというのは、非常におこがましく思われるので、注釈ではなく、「覚書」としたいと思います。 またこの部分でお金をとるのは心苦しいので、詩句の翻訳のページ数のみの値段としたいと思います。 詩句だけで200ページになり、あとシャンカラの略歴など、および索引として、50〜100ページになるとおもいますが、未だ不明です。 表紙のカバーは少し工夫したいと思います。インパクトが強いように。