五五〇:木は川の流れに流されるがまま
    高い、または低い土地へ流れていくだろう
    同じように、彼の肉体は「カーラ」の流れに流されるがまま
    天の意思を享受していくのである



詩句五五〇【覚書】:★《全体の趣旨》「天の意思(ダイヴァ)」とは、カルマに支配される者には、原因と結果からなる因果律をいい、カルマを超えた者には主の意思となる。「カーラ」は主が支配する「時」を意味しており、それは原因と結果からなる因果を、人類に永遠に供給するものである。つまりこの世の出来事に偶然はなく、すべては必然の法則に従って生じている。人を憎めば憎み返され、罵れば罵られ、人を愛するなら、その人も愛される。善因は善果をもたらし、悪因は必ず悪果をもたらす。仏教に十悪が語られるが、それらは必ず相応する苦しみをもたらすとされる。具体的には、@:殺生→短命、多病に陥る。A:偸盗(盗み)→貧困に陥り、団体生活から除外される。B:邪淫→妻が不貞を働き、また親族不和を招く。C:妄語(嘘を言うこと)→人から非難を受けて、詐欺に遭う。D:綺語(言葉があいまいなこと)→言葉で信を失う。E:両舌(二枚舌)→悪徳の友が集まる。F:悪口→自分も人から悪口を言われて、争いごとに悩むようになる。G:貪欲→生活の中で不平不満が絶えなくなる。H:瞋恚(怒ること)→人生を狂わせて、病気になる。I:邪見→物事が不明になる。
 「時」の意義は、カルマに束縛された人間に解脱の機会を与えることにある。悟った者でさえ「カーラ」からは逃れられない。それは主が持つ力だからだ。主だけがそれを超えることができる。事実、クリシュナはある年齢が来ると、そこから老いずに、三十歳位の青年のままにとどまられた。
 因果律は自分の思いと行いが定めるが、そこには必ず主の配慮が存在する。原因と結果だけで人生が定まるなら、人間はすべて過酷な運命を生きねばならない。そこには本人の努力に応じて主の慈悲が存在しており、それによって運命も変わってくる。それゆえ聖パウロは「いつまでも残るものは、信仰と希望、愛の三つで、その中で最も偉大なものは愛だろう」(コリントの信徒への手紙13‐13)と、希望を持つことを語られたのだろう。 参考:「一切の行為を成就するため、サーンキヤは説かれるが、五つの要因をわたしから聞け。すなわち、活動の場所である肉体、行為者、各種の感覚と行為器官、さらに、多様な個別的活動と、それに第五に運命である」(BG18‐14)、「われは実に不滅の時間であり」(同10‐33)、「われは世界を滅ぼす時(カーラ)である。全世界を滅ぼすために出現した」(同11‐32)、「全知にして太古の主は、微よりも微、一切の配置者」(同8‐9)。