四八三:世界はどこに行ったのでしょう? 誰がそれを取り除いたのでしょう?
    そしてそれはどこに消えていったのでしょう?
    先ほどまで眼で観えていたのに
    今はもうここには存在しない、これは何と不思議なことでしょう!



詩句四八三【覚書】★:《全体の趣旨》世界を認識するのは、それを「認識するもの」がいるからで、「認識するもの」が無ければ、世界は存在しなくなる。それゆえ熟睡すると世界は無くなる。ここで「認識するもの」とは心を指し、心が世界を認識している。つまり心が現象世界を表出している。それゆえ心を支配して、それを止滅させれば、それはもはや(仮相の)世界を表出せず、それゆえ認識する世界は無くなる。だが世界を認識しなくても、その基礎にあるブラフマンは輝いている、つまり存在している。そして心の奥にあるのがアートマンである。アートマンは、認識される対象と、「認識するもの」の、その両者の基礎にある認識の主体である。別の見方で言うなら、ブラフマンが実在で、現象世界はその表れである。心が働かなくなると、明暗を描く現象世界は、明だけのブラフマンだと理解される。それは今見えている世界ではなく、光り輝く大調和の世界である。その境地を体験するには、唯一の実在である主だけを思うようにする。寝ても覚めても、愛する人を思うように、主だけを思っていく。そうすることで、主の慈悲によってマーヤーの煙幕が外され、世界の実相を眼にするようになる。そのように主の中にとどまることがサマーディである。つまりサマーディとは、自分の力で獲得するものでなく、主の慈悲によって与えられる境地である。ヴィシュヌは次のように語られる、「汝がわたしの中で何か苦しみを感じたとしても、それはすべて汝の幸福を増し、至福をもたらすものである。そしてその世界において汝が見た動不動のものは何でも、すべてわたしの本性が個々のものとして、定められたものである」と。 参考:「天地の間の空間と一切処は、主独りによって充満される。主の稀有にして恐るべき相は、三界は愕然たり、偉大な主よ」(BG11‐20)。