四二五:ブラフマンに吸収されて、そこに永遠にとどまり続けた結果、外界の対象をもはや意識せずに
    他の者が喜ぶような感官の対象に対しては、眠りに落ちた者や赤子のように、それらをただ享受するだけとなり
    この世界を見る時には、夢の中のもののように、その時々においてそれらを見る者
    そのような人は非常に稀有であり、彼は無数の善行の結果を享受する、祝福された者と言えて、世の人々からの尊敬を受けるだろう



詩句四二五【覚書】:★《ブラフマンに吸収されて、そこに永遠にとどまり続けた結果、外界の対象をもはや意識せずに》ブラフマンだけが実相で、世界は仮相に過ぎないと理解した結果、それらへの関心を失ってしまう。ブラフマンの至福と比較するなら、感官の対象からもたらされる喜びは、大海の中のほんの一滴に過ぎない。神の光とはそれほどに素晴らしいものである。 参考:「外界に接しても関心は薄く、内に幸いを見出す者は、常に心を主に集中する。かかる者は永遠の幸福に到達する」(BG5‐21)。
★《他の者が喜ぶような感官の対象に対しては、眠りに落ちた者や赤子のように、それらをただ享受するだけとなり》感官の対象は単なる物質に過ぎないと悟った結果、もはやそれらに価値を認めなくなる。それゆえ自分からは何も求めず、与えられたものだけを、主に感謝して享受するようになる。喜ばしいものを求めず、喜ばしくないものを得ても悲しまない、つまり「楽は求めず、苦は避けず」の心境になる。経済社会では、生きる為には金銭は必要不可欠である。だがブラフマンの境地に達した者は、主があらゆる便宜を図ってくださり、生活には何の不安も無くなる。そのような境地になるには、寝食を忘れて神に奉仕できるような自分にならねばならない。 参考:「神理に満足して動ぜず、感官を制御したる者は、土も石も黄金も均しく、彼こそ真のヨギーである」(BG6‐8)。
★《この世界を見る時には、夢の中のもののように、その時々においてそれらを見る者》ブラフマンの世界を見たなら、物質世界にはもはやそれほど意義を認めなくなる。眠りに入ると世界を認識せずに、目覚めると再び認識する。つまり世界は認識する自分があって初めて存在する。だがアートマンはどのような状態でも存在しており、それゆえそれだけが真実と言える。この境地に至った者は、この世の動きに心を動かさず、それでいて、それらを正しく認識している。そして人々が平安であるよう、たえずそのように祈って日々を送っていく。
★《彼は無数の善行の結果を享受する、祝福された者と言えて》過去世での努力の総和が、今生でのその人自身である。主が前世の行いを見て、その人のグナを決定される。そしてそのグナの縛りから人は逃れられない。逃れるには主に帰依するしかない。善行とは他者への奉仕である。献身奉仕こそが人間の生きる道である。献身奉仕の無い信仰は、信仰とは呼べない。 参考:「主は万物の心の中にあって、万物をして舞台の上に登らせ、その幻力により人形の如く回転させ支配している」(BG18‐61)。