三六四:聖典を聴講するよりも
    マナナは百倍も優れて
    ニディディヤーサナは、マナナより十万倍も優れていよう
    だが、ニルヴィカルパ・サマーディの功徳は、無限大のものなのだ



詩句三六四【覚書】:★《聖典を聴講するよりも、マナナは百倍(シャタグナ)も優れて》聖典の聴講と学修を「シュラヴァナ」と呼ぶ。聖典を読み、導師の教えを受けて、正しい知識を習得することを意味する。「マナナ」とは、聖典の意味を熟慮し、体験を通して理解することを指す。文字にされた部分は限られるため、行間に隠された神理を、自分で発見せねばならない。それゆえ文字だけを追っていては、理解は浅薄なものとなる。また教えられたことをたえず心に留めていると、実生活の中でそれを理解できる体験をさせられ、神理の理解がより深まっていく。だが自分の経験や思考の範囲は限られるので、志を同じくする仲間と語り合うことが重要となる。その結果、自分の考えの間違いに気づき、新しい発見をしていく。主の名の下に同志が集まり、語り合うなら、そこには必ず主の臨在があるとされる。主はどこか遠い世界におられるのではなく、我々のすぐ側におられて、我々が主を思うなら、ただちにその者に眼をかけて、示唆を与えてくださる。 参考:「思考力をわたしの上に置き、理性をわれの中に入れよ。さすれば汝はわれの中に住む。ここに疑いあることなし」(BG12‐8)、「わたしに最高の信愛を捧げ、わたしの信者たちの間に、最高の秘密を説く者は、疑いなくわたしに至るであろう」(同18‐68)。
★《ニディディヤーサナは、マナナより十万倍(ラクシャグナ)も優れていよう》ニディディヤーサナは、ディヤーナと同じく「瞑想」と訳されるが、これはジュニヤーナ・ヨーガにおける専門用語で、ヨーガの目的であるアートマンに思いを集中させること、つまり想念活動を、たえずアートマンに合わせるよう努めることを意味する。回転する独楽が、揺れながらもたえず直立しようとするように、揺れ動く心を、たえず主(アートマン)に向けるよう「瞑想」することである。だが座って瞑想するだけでは正しい教えは身につかない。そのような環境の中だけでアートマンを瞑想できても、普段の生活の中で出来なければ、アートマンを悟ったとは言い難い。何があっても心が不動となるには、感官の対象の真っただ中で修行する必要がある。そのためには、日常生活の中でたえず主に祈るようにする。祈りはある意味で瞑想でもある。主への祈りはカリ・ユガにおける唯一の救いで、それは天上の父と地上の人間を結ぶ光の架け橋である。そのように努力して、どのような状況下でも心が動かなくなると、次の段階である、ニルヴィカルパ・サマーディに進むことができる。
★《ニルヴィカルパ・サマーディの功徳は、無限大のもの(アナンタ)なのだ》ニディディヤーサナの実践によって、ブッディが浄化されると、本来の自分であるアートマンと、偽りの自分であるブッディとの間のブレが消失して、自己本位の思いが無くなり、至福の境地に到達する。つまり心の働きが止滅して、ブラフマン(主)以外に思わなくなり、その結果、自分と他人、観る者と観られる対象の間の区別が消失して、全なるアートマンの境地に至る、これがニルヴィカルパ・サマーディである。
 以上の四種の実践は、ジュニヤーナ・ヨーガの四段階を表している。つまり、シュラヴァナ→マナナ→ニディディヤーサナ→ニルヴィカルパ・サマーディとなる。導師の役割はシュラヴァナまでで、そこから先は自分で努力せねばならない。または、密教に語られる「同行二人」によってそれを成し遂げる。真言密教では、それは弘法大師と自分だが、ここでは聖霊と自分の二人である。聖霊の声を直接に聞くことは難しいが、それは人の口を通して、または書物から、さらに身の回りの状況から読み取ることができて、時には霊感や直観として心に浮かぶこともある。または自分の心に問いかけることで、良心の声として理解することができる。良心の声はしばしば自分にとって有難くないものだが、それは自分の心がアートマンとは正反対にあるからである。いずれにしても、そのような示唆は、自分の心がそちらに向いていないと、つまり詩句三六〇に語られたように、ブッディが精妙なものになっていないと、気付くことができない。自分のブッディを浄化すればするほど、より具体的に示唆を受け取り、間違いのない人生を送るようになる。
 ちなみに、人間にはすべて守護霊がついているという意見があるが、そのようなことは無いらしい。なぜなら、地上の人間を善導できる意識の高い魂は、数に限りがあるからだ。人は死ねばすべて成仏できるかというと、死んだからといって急に迷いが無くなるわけがなく、生きている間の思いのままであの世に行くので、ほとんどの人が迷いの世界へ落ちていく。亡霊が人間を指導できるわけがないだろう。それゆえ守護霊や聖霊が専属でつくのは、相応の努力をしている人に限られる。ヒンドゥー教では、神々の数は三十三人おられるとされ、それらの方々の下に聖霊群が配置されて、全てで三万三千人の神々が人間を守っているとされる。そしてそれら神々の長にあたるのが、インドラである。ヒンドゥー教では、インドラは雨を管理する神とされるが、その意味は、人間の魂は、死ぬと月の世界に向かい、その世界で果報を享受してから、ないしは月まで行かずに、その途中から、雨粒に宿って大地に落ちていき、そこで水の一滴となって植物の中に入り、それを食べた生き物の精子に宿り、母親の卵子と結ばれて、この世に誕生してくる(五火二道説)。つまりインドラは人間の魂の行先を采配する、天国を支配する神のようである。インドラは仏教では帝釈天と呼ばれるが、密教における阿閦如来(アシュク如来)とその神格が重なる。ちなみに阿閦如来は阿弥陀如来に匹敵するほどの偉大な方で、阿弥陀如来が西の方角に位置するのに対して、阿閦如来は東の方角を支配するとされ、また阿弥陀如来が極楽国を支配するのに対して、妙喜国を管理するとされる。「阿閦」という名の由来は、怒りに動かされないと誓いを立てたことによる。またその下におられる一群の神々には、すべて「金剛」という名が付けられて、これは「金剛(ダイヤモンド)のように心が堅固である」ということを意味する。 参考:チャーンドーギャ・ウパニシャッド5‐3‐10、ブリハド・アーラーニヤカ・ウパニシャッド6‐2。