三四二:強大となったアハンカーラを滅ぼすには
    賢明なる者であっても、ただちに可能とはいかないだろう
    ニルヴィカルパと呼ばれるサマーディにて完全な平安を得た者だけが、それを可能とするだろう
    なぜならヴァーサナーは、無数の転生の結果だからだ



詩句三四二【覚書】:★《強大となったアハンカーラ》樹に水を注いで育てるように、自己本位の思いと行動でそれを成長させてきた。
★《ニルヴィカルパと呼ばれるサマーディにて完全な平安を得た者だけが、それを可能とするだろう》サマーディには、先に述べたように(詩句七十)、「サヴィカルパ・サマーディ」と「ニルヴィカルパ・サマーディ」の二種がある。ブラフマンに没入するに際して、知る者、知る対象、知る行為という三者の区別が消滅して、心が変化を経験しなくなった状態、つまり眼に見える刺激などに動かされず、心が消滅したサマーディを「ニルヴィカルパ・サマーディ」と呼び、それらの区別が存在して、心がまだ変化を経験するものを「サヴィカルパ・サマーディ」と呼ぶ。言い換えるなら、「私」という思いが完全に消滅したサマーディがニルヴィカルパで、それがまだ残り、主と完全に結ばれていないサマーディをサヴィカルパと呼ぶ。またこれ以外の分類として、悟った後にも「私」を意識的に残して、神と自分という関係を保ち、その喜びを味わうサマーディを「チェータナ・サマーディ」と呼び、「私」という思いが完全に消失して、神と自分が融合したサマーディを「ジャダ・サマーディ」と呼ぶ。さらに、瞑想中にニルヴィカルパ・サマーディに留まることを「ケーヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディ」と呼び、日常生活の中でもその境地に留まり続けることを「サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディ」と呼ぶ。サハジャとは「自然」という意味。瞑想中は心が平安でも、日常生活に戻ると動揺する。この問題を乗り越えさせてくれるのが祈り(ウパーサナ)である。祈りによって、日常生活の中でも、アートマンの世界にとどまることが可能となる。
★《ヴァーサナーは、無数の転生の結果だからだ》長いサンサーラの過程で積み重ねてきたので、今生だけですべてを消すことは出来ない。だがヴァーサナーは仮相であり、実相ではないので、消えないとも言い難い。ここに主の恩寵(神寵)の意義がある。