三三〇:たとえ啓示を受けし者であっても
    制限されざるブラフマンの中に、僅かでも差異を見るなら
    不注意によって認めたその異なりしものは
    その者にとって恐怖の原因となるであろう



詩句三三〇【覚書】:★《不注意によって認めたその(ブラフマンとは)異なりしものは、その者にとって恐怖の原因となるであろう》シャンカラも最初の頃は差別観を持っていた。聖地ヴァーラーナシーで下層階級者と道で出会った時、シャンカラはそれを避けようとしたが、その下層階級者はシヴァ神の現れだった。それを悟ったシャンカラは、ただちに自分の間違いに気付いたという逸話がある。またイエスはしばしば、取税人や売春婦など、世間から拒否される人々と食事をされたが、それを見たユダヤの人々は、伝統的教えを根拠にイエスを非難した。イエスはその人の内なる魂を見られたので、そのような人々でも救いを得るに相応しいと見なされた。つまり差異を認めるとは、外観にとらわれて、内なる真実を見ていない状態である。世の中を見て、善だ、悪だ、と考えるのは、自分の基準で判断しているだけである。主はこの世的な善を必ずしも善とはみなさず、また悪であっても、必ずしも悪として嫌うことがない。主にとって重要なのは、主を信じるかどうかである。そのような人はいずれ正しい方向に向かい、またそのように信じられる人は、すでに前世で信じていたからである。 参考:「たとえ汝が極悪人であっても、汝がこの神理の舟に乗ることさえできれば、一切の罪から解放されよう」(BG4‐36)、「たとえ極悪人であっても、一意にわたしに信愛する者は、彼は善人と見るべきである。彼は正しく決意したからである」(同9‐30)、「自己を制した者は、平安の中に住するようになる。彼にとって寒暑も幸不幸も、名誉、不名誉も同じである。神理に満足して動ぜず、感官を制御したる者は、土も石も黄金も均しく、彼こそ真のヨギーである。自分に好意ある者、冷淡な者、友人も敵も、親族に対しても、また、善人悪人、中立者にも、心平等な者は優れている」(同6‐7〜9)、「恐怖は(自分とは別の)第二のものからもたらされる」(BAU1‐4‐2)、「一切はアートマンの外にあると見なす者、そのような者を、一切は見捨ててしまうだろう」(BAU2‐4‐6)、「心の中でこのことに留意すべきだろう、“ここには決して多様性は存在しない”と。もしここにおいて多様性を認めるなら、その者は死から死へと向かわざるを得ないだろう」(KAU4‐11)。