三一三:ヴァーサナーが増えるなら、結果も増えていき
    結果が増えるなら、ヴァーサナーも増えていこう
    そのような者にとっては、如何なる手段によっても
    サンサーラが終わることはないだろう



詩句三一三【覚書】:★《全体の趣旨》ヴァーサナー(潜在的欲望)が原因(種子)で、結果は、次の詩句からわかるように、心の内での思い(チンター)と、その思いが外に現れた行動(クリヤー)である。詩句三一二と合わせてこの詩句を理解すると、「原因であるヴァーサナーが増えると、結果である思いと行動が増えて、また、結果である思いと行動が増えると、原因であるヴァーサナーも始めより増えていく。そこで、結果である思いと行動を滅ぼすなら、原因であるヴァーサナーも無くなっていく。なぜなら、原因のヴァーサナーを消すのは困難だからだ。それゆえ人は結果である思いと行動を滅ぼすよう努力していく。つまり、心の中で感官の対象を思うこと、それを得ようと行動すること、その両者を無くすことで、ヴァーサナーはいずれ消えていく」となる。自己本位な思いを持ち、そのように行動した結果、それらからの印象が心に刻まれていき、ヴァーサナーとして潜在化していく。つまり感官の対象に心を奪われて、自己本位な思いを持ち、そのように行動する者は、毎日のように心に垢をつけて、ますます自分が不明となっていく。
 この世は魂の試験場である。ヴァーサナーは悪と理解していても、対象に接した時にそれらが出て来るなら、その人は依然としてヴァーサナーに支配されている。またヴァーサナーを無くすのが難しい理由は、自分がどんなヴァーサナーを持っているのか、自分では分からないことがある。それらが表に現れることで、そのようなヴァーサナーが自分にあることに気付く。それゆえそれらを表してくれた対象に感謝すべきとも言える。人間のカルマは非常に根深く、自分でも気付かぬものが無数にあり、今生で現れているものはその一部にすぎない。
 現世に生きる我々は、現れた結果を消すよう努力していく。悪と気付いた時点で神に祈り、その思いと行動を消してもらう。祈ることでそれらは心に残らず、それゆえヴァーサナーになることがない。このような理由によって、カルマの清算はこの世で肉体を持つことで可能となり、肉体を持たないあの世では困難なことである。あの世では、特定の世界で、自分と同じような人々と住んでいる為に、相対的な思いが出る機会は少なく、悪の行為をなすことも無く、それゆえそれらを修正する機会を持たない。一方、欲望を満たすことで欲望は消されるという意見があるが、この詩句から言えることは、欲望を満たすなら、それはさらに欲望を起こして、最後には自分を破滅させるということである。それゆえ欲望を満たすことは肯定されない。欲望を満たすことで欲望の空しさを知るという考えについては、わざわざそのような危険を冒す必要は無いだろう。親鸞の悪人正機説は有名だが、悪人だからと言って必ずしも善に向かうわけではないだろう。「悪に強い者は善にも強い」という言葉は、あくまで結果論であり、悪人がすべて善人になることはあり得ない。本来は善人であるが、人生の過程で致し方なく悪人となった者だけが、自己反省して、罪を悔い、善へと向かうのである。それゆえ悪の実践は決して肯定されない。