二九三:自分が観るこれらすべては、偽りなのだ
    アハンカーラも、それは一時的なものと知られるゆえ、事実ではないのだ
    「私はすべてを知っている」と言ったところで
    アハンカーラなどが一時的なら、どうしてそれが確かであり得ようか?




詩句二九三【覚書】:★《自分が観るこれらすべては(サルヴァートマナー、ドリシャム、イダム)、偽り(ムリシャー)なのだ》それら現れた姿はすべて仮相(ミティヤー)であり、基礎のブラフマンだけが真実である。
★《アハンカーラも、それは一時的なものと知られるゆえ、事実(アルタ)ではないのだ》自分という思いは、熟睡に入ると無くなり、目覚めると再び現れて、人生の悲喜劇を経験していく。それゆえそれは一時的なものである。
★《「私はすべてを知っている」と言ったところで、アハンカーラなどが一時的なら、どうしてそれが確かであり得ようか?》人間の心に巣食う傲慢な思いはそう易々とは消えない。「私はすべてを知っている」と言い張るなら、神様も「では好きにしなさい」と知らん顔をされるだろう。この場合、知的な自負心が盲目の原因である。自負心ほど人生を狂わせるものはない。 参考:「もしあなた方が盲人であったなら、罪はなかったろう。しかし今あなたがたは「見える」と言い張るところに、あなたがたの罪はあるのだ」(JHG9‐41)。