二五一:「土」から作られた「壺」などは、いつでも、どの部分でも、「土」に過ぎないと理解できよう
    同じように、サットから作られたものは、すべてサットの性質を持ち、それらはサットそのものなのだ
    なぜならサット以外に存在するものは無く、それは真実そのもので、それは「自身」である、アートマンなのだ
    それゆえあなたはそれなのだ、すなわちあなたは、最高の平安に満ちた、穢れなく、二元性なき、至高なる、ブラフマンそのものなのだ



詩句二五一【覚書】:★《「土」から作られた「壺」などは、いつでも、どの部分でも、「土」に過ぎないと理解できよう》チャーンドーギヤ・ウパニシャッド第6章において、ウッダーラカが息子のスヴェータケートゥに説いた教え。壺が造られる前も、壊れた後も、その本質は「土」でしかない。
★《サットから作られたものは、すべてサットの性質を持ち、それらはサットそのもの(サンマートラ)なのだ》「サット」とは「実在」の意で、真に実在するものはブラフマンしかない。それ以外は一時的にしか存在しないものである。参考:「その根(寄るべきところ、原因)は食べ物以外の何であろうか? ああ、愛しき者よ、食べ物は発芽(結果)であり、それゆえその根(原因)である水を求めよ、水は発芽であり、それゆえその根である火を求めよ、火は発芽であり、それゆえその根である実在(サット)を求めよ、これらすべての生き物は、ああ、愛しき者よ、それゆえ実在(サット)を根として持ち、実在を居所として持ち、実在を支えとして持つのである」(CHU6‐8‐4)。
★《それは真実(サティヤ)そのもので》サット(実在)であるものが、サティヤ(真実)である。つまり実在するものだけが真実である。実在しないもの(アサット)は真実ではなく、それらは仮相(ミティヤー)に過ぎない。
★《それゆえあなたはそれなのだ(タット・トヴァム・アシ)、すなわちあなたは、最高の平安に満ちた(プラ・シャーンタ)、穢れなく(アマラ)、二元性なき(アドヴァヤ)、至高なる(パラ)、ブラフマンそのものなのだ》「穢れなき」とは、無知などに汚されないこと。「二元性なき」とは、そこには「あなたと私」という概念は存在せず、「主と自分」という概念しかないこと。主と人間の魂は絶対的な関係である。相対的な関係とは、異質な物同士が対峙して存在することだが、主と人間の魂は異質なものではなく、それらは同質なもので、しかもそれらは対峙せずに、一方が他の完全な支配下にあり、その内に含まれ、その一部に過ぎない存在である。主が存在しなければ人間は存在できない。それゆえそれは絶対的な関係である。