二一二:弟子は質問した
    「 これら五つのコーシャが
    仮相としてすべて否定されたなら
    そこには「完全なる無」だけが存在しており
    ああ、わが導師よ、他には何も見ることができません
    アートマンを知る、啓示を受けし者達が、自らのアートマンと理解する
    いかなる「現実」が、そこには存在するのでしょうか?」



詩句二一二【覚書】:★《そこには「完全なる無(サルヴァー・アバーヴァ)」だけが存在しており、ああ、わが導師よ、他には何も見ることができません》アートマンの存在を認めず、それらコーシャを否定したなら、その人は無になってしまう。だが弟子は「他には何も見ることができない」と、「完全なる無」を見ている存在を考えた。それこそがアートマンであり、それは唯一の認識の主体である。全てを否定するなら、それらでも否定できない、全ての基礎に存在するものだけが残る。または、ブッディでは認識できない存在が、そこにはあることになる。 参考:「もし人がブラフマンの存在を否定するなら、その者は非実在(アサット)となり、その存在を肯定するなら、その者は真に存在するものと言える」(TTU2‐6)。