一八九:「真の理解」という性質を持つ、このアートマンは
    心臓の中、プラーナのそばで、自ら光り輝いているだろう
    そして金床のように変化を受けぬものの、このウパーディゆえに
    それは行為者となり、かつ享受者となるのである



詩句一八九【覚書】:★《「真の理解(ヴィジュニヤーナ)」という性質を持つ、このアートマンは》「ヴィジュニヤーナ」とは「真の理解」という意味で、このコーシャも非アートマンではあるが、アートマンの光を強く受けるので、人はここを通して智慧を受けることができる。
★《心臓の中、プラーナのそばで、自ら輝いているだろう》「プラーナ」はインドリヤ(器官)とプラーナ類に関与しており、アートマン自身とは直接の関係がないので、「そばで」と表現される。プラーナはアートマンにとっては小間使いのようなものである。アートマンはヴィジュニヤーナマヤ・コーシャの中、心臓の内部の空間に存在しており、その大きさは髪の毛先の一万分の一と表現される。太陽の表面からは無数の光線が放射されるように、主の身体からは無数の光の粒子が放射されて、その一つが個々の魂の中心に宿り、それが我々の内に臨在される主(最高のアートマン)と言える。それゆえそれは、主がそこに宿るというよりも、不可分の意識によって我々の魂は主とつながっているということになる。そのように、人間の魂は常に主とつながり、主の監視下にある。それゆえ自分が思うことは、すべて主に筒抜けで、誰も主を欺くことはできない。実際には、人間の霊魂は、霊子線という、霊的な糸によって主とつながっている。その糸を通して、主から精神エネルギーを供給されている。それが太いほど、自分の中に智慧と力がみなぎるようになる。それを太くするには、主への信仰を強めること、つまり主のヨーガを熱心に行うことである。 参考:「またわたしは、万物の心臓に住す。記憶、知識、無知の除去はわたしに由来する。全ヴェーダはわれを知るためであり、われはウパニシャッドの作者、かつまた全ヴェーダの知者である」(BG15‐15)。
★《金床のように変化を受けぬものの(クータシュタ、サン)》「クータシュタ」とは金床のことで、その上で金属を加工しても、それ自身は少しも変化しない。つまりアートマンは、その上に様々な概念を重ね合わされても、それによって少しも変化しない。アートマン自身は、ブッディが如何なる行為を為しても、また何を思おうとも、行為者や享受者に変異することはなく、自分は主の永遠の僕であると理解している。 参考:「肉体によるすべての活動は、物質自然の働きによる。自らは何も為さないと知る者、彼は真の実相を見ている」(BG13‐29)。
★《このウパーディ(ヴィジュニヤーナマヤ・コーシャ)ゆえに、それは行為者(カルター)となり、かつ享受者(ボークター)となるのである》水晶の側に赤い花を置くと、水晶そのものは無色透明だが、側に置かれた赤い花のせいで赤く見える。だがそのように見えるだけで、透明という水晶の本質は少しも変わらない。同じように、アートマンの側にブッディがあると、アートマンはブッディの性質を帯びるように見えて、その結果、それは行為者となり、享受者となるように見えるが、実際にはそれは、マーヤーに惑わされたブッディが妄想を抱いているだけである。完全に純粋な精神であるアートマンは、低次プラクリティ(心やブッディなど)に覆われた結果、本来の状態から堕落して、ギーターに説かれる高次プラクリティ(サーンキヤにおけるプルシャに等しい)となり、それが行為者や享受者になっていった。だがアートマン自身は高次プラクリティの中に隠れており、それは決して行為者にも享受者にもならない。真の行為者であり、享受者であるのは、主だけである。なぜなら、行為のエネルギーも、思考のエネルギーも、すべて主から来ており、行為の対象も行為器官もプラクリティで出来ていて、そしてそのプラクリティは主のエネルギーが変化したものである、つまり主がそれらのすべてを御自分で作って、享受されているのである。 参考:「地水火風空、心、知性、自我意識は、わたしの八種の本性(プラクリティ)から分かれた低次の本性である。されどアルジュナよ、これとは別の高次の生命としてある特性(プラクリティ)を知れ。世界はこれによって維持される」(BG7‐4、5)、「これ」とは高次プラクリティのことで、「高次の、生命としてある特性」とは、低次プラクリティに覆われたアートマンのこと。「この肉体における最高の霊我は、傍観者、許容者、支持者、享受者たる主が住んでおられる、最高我として知られている」(BG13‐22)。許容者とは、本来の行為者であり享受者であるのは主だが、無知に覆われて自分がそうだと思っている魂を、主は許しておられるという意味。