十五:それゆえヴィチャーラを熱心に実践して
   アートマンという「現実」を知らんと願う者は
   慈悲の大海のごとき、ブラフマンを覚知する最高者を
   自分の導師として仰がねばならないのだ

 
 



詩句十五【覚書】:★《全体の趣旨》導師は既にブラフマンを悟っており、それゆえ自分では何も求めることがない。ブラフマンはすべての根源であり、それに至ったということは、その者はもはや生かされる者ではなく、生かす者の側に立ったからだ。それゆえ弟子を導くことは全くの慈悲であって、それにて自分が功徳を得ることはなく、また弟子から何も求める必要はない。逆に言うなら、ブラフマンを悟っていなければ、ブラフマンを説く資格はないことになり、また弟子に何かを求めるなら、それは導師ではないことになる。人々の導師となるには、それなりの覚悟が必要である。ちなみに導師は「グル」の訳語で、「グ」は「暗黒」、「ル」は「取り除くこと」、つまり「グル」とは「弟子から無知を取り除く者」という意味になる。 参考:「愚か者は闇の中にいながら、自分は賢いと思い込み、虚しい知識にふくれあがって、盲人に導かれる盲人のように、あちこちによろめき、さまよっていく」(KAU2ー5)、「盲人が盲人の道案内をできようか? そうするなら、二人とも穴に落ちるではないか?」(LKG6‐39〜40)、「私を信じるこれら小さき者達の、その一人でも躓かせるような者は、大きな石臼を首にかけられ、深い海に沈められるほうがまだましだろう」(MTG18‐6)、「それを知るためには、人は手に祭祀の木を携えて、聖典に精通し、ブラフマンに確立された導師の下に向かい、教えを請わなければならない」(MUU1‐2‐12)、「神理の体得者に就いて学び、服従し、質問をなし、奉仕によってそれを知る。智者は汝にそれを教示しよう」(BG4‐34)。