一四五:タマスこそが、サンサーラという大樹の種子であり、自分は肉体と思うことはその発芽なのだ
    そして愛着はその柔らかき新芽であり、行為がそれに注がれる水、肉体はその幹、プラーナはそこから分かれる枝だろう
    器官がその小枝で、感官の対象は花、そして多様な悲しみは、行為の結果である果実だろう
    ジーヴァがその木に留まる鳥で、それはそれら結果の享受者となるのである



詩句一四五【覚書】:★《全体の趣旨》サンサーラの根本原因はタマス、つまり無知である。無知の結果、肉体が自分(アートマン)と思い込む。そして肉体に愛着(ラーガ)を持ち、それに促されて行為(カルマ)を為す。行為によってサンサーラは延々と続いていく。善の行為は善の結果を生み、それは悟りへとつながり、悪の行為は悪の結果を生み、それは人間失格へとつながる。このサンサーラの継続には、肉体は必要不可欠な要素である。肉体の束縛が無くなればサンサーラも消滅する。そしてその肉体は五種のプラーナによって機能している。諸器官は感官の対象を知覚するが、小枝はその先端に花が咲くだろう、つまり枝と花はつながっている、すなわち諸器官はタマスゆえに感官の対象と結び付いている。花は美しく、魅力的で、手に入れることで喜びを感じると思わせよう。そして諸器官が対象と結び付くと、それは果実を生み出す。だが果実(結果)はそのほとんどが悲しみである。なぜなら善悪の思いから為された行為の結果は、たとえ好ましくとも、後には苦しみの原因となるからだ。そしてその果実に含まれる種は、ふたたびその者にタマスの要素を与えていく。しかし人間の魂(アートマン)はその大樹とは別の存在であり、それら行為の結果とは関係していない。それらの結果を享受する、つまりそれらを体験するのは、ジーヴァ(個別化した、経験途上の魂)である。主が行為の最終享受者ではあるが、人間は自分が享受者だと思うので、自己本位に行為するようになり、その結果である苦楽を経験する羽目となる。自己本位な思いが無くなれば、行為の結果である、良いこと、悪いことに心が動かなくなる。そうして無知から解放されると、その鳥は樹から離れて、自由を得て、大空に飛び立っていく。 参考:「成分(グナ)によって成長した枝々は、上下に広がって生い茂り、感官の対象の芽をつける。根は下方に伸び、その根は人間社会の行為に結びついている」(BG15‐2)、「感官の喜びは始めと終わりがある。ただ、苦しみのみをもたらす。賢者はかかる快楽を喜ばない」(同5‐22)。