一一一:ヴィクシェーパ・シャクティとは、「行動」という性質を持つ、ラジャスの持つ力であり
    これによって世俗的活動の流れが始まったのだ
    愛着や嘆きなどの心の変異は
    たえずこれによって発生していよう

  



詩句一一一【覚書】:★《ヴィクシェーパ・シャクティとは、「行動」という性質を持つ(クリヤートミカー)、ラジャスの持つ力であり》ヴィクシェーパとは「投影する、放射する」という意味。マーヤーの力には、三グナに応じて三種あり、それぞれ、ラジャスによるヴィクシェーパ・シャクティ、タマスによるアーヴァラナ・シャクティ、サットヴァによるジュニヤーナ・シャクティが存在する。初めの二者は束縛をもたらして、最後のジュニヤーナ・シャクティによって解放がもたらされる。
★《これによって世俗的活動の流れが始まったのだ》「世俗的活動の流れ」とはサンサーラのこと。ヴィクシェーパ・シャクティは宇宙の創造と展開にも関与しており、それはラジャスの力を持つブラフマー神が行ったとされる。だがブラフマー神はその力を行使する者であって、それに支配される者ではないだろう。しかし人間はこの力に支配される存在であって、その結果、様々な思いを抱き、本来の在り方から逸れていく。ちなみに、人間として再生するには、最低でもラジャスの中段位でないと無理とされる。それ以下の者は動物や虫などになって生まれてくる。ラジャスの人の性質を大まかに説明すると、相対的な考え方をして、相手によって態度を変え、欲望に動かされやすく、物質世界に異常な関心を持っている。そしてラジャスの上段の人は、人の良い人が多く、中段の人は、周囲の状況に動かされて、地位や名誉、金銭に執着する傾向にある。そして下段の人は自己本位で、欲望が非常に強い。この世に生きる人は、ほとんどがラジャスの性質を持っており、サットヴァの性質を持つ人は非常に少ないとされる。そして人間はこの世に生きる間は、グナを通して主に縛られている。つまりどんな人でも、例外はあるが、ラジャスの中段位に留まれるよう、主がグナという糸でその人を縛っている。それゆえ生きている間は、普通、タマスの世界に落ちることはない。つまり反省によって自分を向上させる機会を持つことができる。それゆえこの世に生きている間にこそ、自分の魂の救いがあると言える。死んで霊体だけになると、主によって縛られる力が弱まって、生前中よりも意識を落とし、タマスの世界や、人によっては地獄に落ちていく。地獄では絶え間なき苦痛に苛まれるので、自分を反省することができなくなる。この世では世間体などで自分を制御しているが、あの世ではその人の本音がそのまま出て、それがそこでのその人の住む世界を決めていく。
★《愛着(ラーガ)や嘆き(ドゥカ)などの心の変異は、たえずこれによって発生していよう》人間はこの力に圧倒されて、悪の思いを持つようになる。つまりこの力が心に様々な思いを持たせて、本来のあり方から逸らせていく。その発展にはどこまでいってもきりがなく、それゆえ人間も自制しなければどこまでも落ちていく。それが人間と動物の違いである。 参考:「激質(ラジャス)は激情(ラーガ)を性として、渇愛と執着を生むと知れ。それは行為の執着により、個我(デーヒン)を束縛する」(BG14‐7)。